最近よく見る『寛容』と『多様性』について
今回は私の思考の整理も兼ねて、最近流行りの『寛容』と『多様性』について考えたことを書いてみます。
※今回のブログには個人の見解を多分に含んでおります。ご承知の上、読み進めてください。
最近テレビでもTwitterでも、あるいは周囲の人との会話でも、『寛容』や『多様性』といった言葉を聞かない日は無いくらいにこの言葉は多用されています。
どちらもとても耳障りがよくて、素敵な言葉です。
『寛容』は広い心をもって相手を受け入れること。
『多様性』は集団の中に様々な特徴を持った人が共存していること。
これが広まること自体は私としても大賛成です。
ですが、どうしても素直にこれを喜べないのは、最近使われるこの言葉が一方的に我慢を押し付けているように感じるからです。
『寛容さ』『多様性』の押し付け
昨今この言葉が使われる場面と言えば、セクシャルマイノリティにかかわることが多いと思います。
しかし、現在この話題で『寛容』や『多様性』という言葉が使われる時には、マジョリティである異性愛者を「理解がない人」「配慮しない人」と下げる意味合いが含まれてしまいます。
例えば、「私はトランスジェンダーで心は女性だから女性用のスペースを使えるべきだ」と、身体が男性の方が言うのに対し、例えば温泉や商業施設が対応を迫られる。
彼らの意に沿った対応をしなければ「セクシャルマイノリティに対する差別だ」「配慮ができない時代遅れの人間だ」とあらゆる方向から大きな声が飛んでくる。
あるいはこのブログを読んだ人で、「こんなことを書くのは差別主義者だ」と思う人もいるかもしれない。
ですが、これは『寛容』な社会でしょうか。
『多様性』に配慮した社会でしょうか。
私はとても息苦しい社会のように感じます。
『寛容』で『多様性』のある社会
誤解の無いように言っておくと、私自身はバイセクシャルで、いわゆるセクシャルマイノリティに分類される人間です。
大学の友人にも、同性愛者や両性愛者の友人はたくさんいます。
私の知るセクシャルマイノリティの人たちは(もちろん異性愛者の友人も)、皆『寛容さ』を持っているように思います。
相手が異性愛者でも同性愛者でも分け隔てなく接する。
特別に気を使ってギクシャクすることもない。
これが『寛容』ではないでしょうか。
目の前の相手に「私が同性を好きになることを受け入れろ」と言うのであれば、相手から「そうか。私は異性が好きなんだ」と言われても受け入れる必要があります。
相手に『寛容』を求めるのであれば、まず自分が『寛容』でなければ。
先に挙げた女性専用スペースの件でも、「私の体は男だけれど、心は女だ」と主張するのであれば、女性だけの場所にどう見ても男の体の人が入ってくることが「怖い」ということが分かるはずです。
最近はこれまで漠然としたものに名前がついて、同じ言語を使う人の中ではかなり明確な意思疎通が図れるようになってきました。
コミュニケーションが口先だけでとれるようになってきたのです。
ですが、もし本当に『寛容』で『多様性』のある社会を望むのなら、言葉のコミュニケーションだけでなく、心で取るコミュニケーションこそ重要なのではないでしょうか。
今回は長々と個人の見解を書いてきましたが、これ以上は冗長になりそうなのでここら辺で。
本日も最後までお読みくださりありがとうございました。
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